山と生と死

片山右京氏のパーティが富士山で遭難し、結果片山氏以外が亡くなった。この県の一連の報道を見て、そしてアルピニスト野口健さんの blog の記事を見て、昔自分が遭難しかけたことを思い出したので書いてみようと思う。

当時私は中高一貫の私立学校に通う、高校一年生だった。高校一年生の夏、野外実習というイベントがあった。要するに、九重連山の麓でキャンプし、登山して帰ってくるというキャンプイベントだ。そこで、一学年まるごと遭難しかけたのだ。

登山が予定されていた日の朝、すでに空は灰色で、霧とも小雨ともつかぬ細かい水の粒子が空気中を舞っていた。起床して外の様子を見たとき、生徒の誰もが登山の中止を考えただろうと思う。子供とはいえ、高校一年生。山が危ない場所であることくらいは知っている。そもそもこの登山、事前にまっとうな装備を用意していたわけではない、半ばハイキングのようなイベントだったのだ。もちろん完璧な登山装備を持ってきた者も少数居たのだが、九割以上の生徒は冬の体操服で登山に臨むような状況だった。つまり、もとより悪天候など全く想定していないイベントで、だからこそ私も含め全員が登山は中止だと感じ、疲れるイベントがお流れになった安堵とメインイベントが無くなってしまった喪失感の入り交じった表情で朝礼に集合したのだ。

しかし、朝礼の場で私のクラスの担任であり、当時の学年主任は信じられない事を言い出した。『山の天気はどう転ぶか分からない。ここから晴れるかもしれないから、予定通り登山を開始します。』

もちろんその場はどよめいた。雨天時の登山は、少なくともその時私たちが着用していたような服装で行うべきでないことはわかっていたし、まさか学年主任が基地外だったとも思っていなかったからだ。

彼は、生徒の間では登山好きで有名だった。野外実習の随分前から何度か登山の魅力を話していたし、その時には(私の記憶が確かなら)山の厳しさについても熟知しているような話をしていた。その彼が、まさか当時の状況で登山を強行すると言い出すとは誰も予想だにしていなかった。

生徒には教師の決定を曲げる権利などなく、誰もが不満、あるいは不安そうな表情を浮かべたまま登山を開始した。序盤はまだ皆余裕があった。雨の粒が冷たいだの、服が湿って重たくなってきただの、軽口を叩きながらも動向のカメラマンの女性にピースサインを作ったり、要所要所で待機していた教師と雑談したり、不平不満を言いつつも皆が状況を楽しもうとしていたと思う。

しかし、ほどなく状況は一変する。気づくと空はコンクリートのような灰色になっていた。雲が低いとか高いとか、そんな話ではない。いつの間にか自分たちは雲の中に入り込んでいた。雨粒はいつの間にか梅雨時の豪雨のように大きくなり、隊列をなして歩いていた私たちは、自分の二人前の友人のリュックサックが雨粒の性で霞んで見えていることに気づいた。足元はドロドロに泥濘み、誰も口を開かず、溜息と葉の鳴音と、引きずる足音と、雨音が重々しく響いていた。

数十分もそんな状態で歩いた頃、遥かかなたから叫び声が聞こえた。『一旦とまれ。一旦とまれ。』叫んでいた教師は、きっとそれほど遠くにはいなかったに違いない。しかし雨粒のせいで、私たちには彼の姿は全く見えなかった。空と地面の境目が全くない、灰色の視界の遥かかなたから声が届いたのだ。

徐々に隊列のスピードが落ち、前や後ろの友人と何度かぶつかり、ノロノロと隊列が停止した。なにやら多少平になった場所で、その時、また遠くから教師がなにか叫んでいた。正直、この当時私は疲れ果てていて、話の内容をよく憶えていないのだけれど、現在地だか今から目指すだかのが『九重別れ』で、ともかく登山を中止して引き返すという内容だったことは覚えている。結局私たちはその場でしばらくの間休憩をとり、支給されていた堅パンなどを齧って体力の回復を図った。

この間、雨の様子は多少変化すれど、私の記憶が正しければずっと土砂降りだった。数名先の友人は霞んで見え、濡れた服に体温を奪われ続け、それでも歩き続けるものだから喉が乾き、飲みたくもない冷たいお茶を口に含んでいた。下山までに何度か休憩をとったが、休憩の度に皆の顔に浮かぶ疲労の色が濃くなり、『生きて帰れるのか?』というような話や『何組の女子が歩けなくなったらしい』というような話が交わされていた。

休憩は毎度突然叫び声により伝えられた。そのたびに私たちは前後の友人たちと何度株つかりながら歩みを止め、雨に打たれながら休憩をとり、そして歩行を再開するときには、まるで長時間プールに入っていた直後のような体の重たさに呻いた。

細々したことは、よく覚えていない。ただ、何組の女子が動けなくなったから休憩を取っているらしいというような話が伝わってくる度に『そいつと適当な教師がその場で休憩すればいい。休憩のたびごとにこちらが立ち上がり直さなければならないのだ』などと感じたことは明確に覚えている。もちろん、その実在するかどうか分からない動けなくなった女子を心配する気持ちが無かったわけではない。ただ、自分の限界もそう遠くはないと切実に感じていた。

時間にしてどのくらい歩き続けたのか分からない。結局私たちは、無事下山した。服を絞るといくらでも雨水が出てきた。翌日までジョギング程度のペースですら走ることができなかった。そして、疲労困憊した中で作った夕飯を貪るように食べ、風呂で体を温めて、登山を強行した教師の『おまえたちは山を甘く見ていた。ちゃんとした登山装備をしていたものが何人いたか?山は怖い場所なのだから、服装規定がなくとも全員が登山服を持ってくるのが常識なのだ。』という旨のありがたい言葉に腸を煮えくり返させられた。

当時、私が所属していたクラスの担任だったその男の言う事を私はそれから一度も信じなかったし、学年のほとんど全員が彼を軽蔑していたと思う。彼は翌年から学年主任を外され、クラス担任も持たなくなった。そして野外実習は私たちの年が最後となったらしい。

今から振り返っても、明確にあれは死からそれほど遠くない場所にいたのだと感じる。そして、そんな時に人間がどれだけ弱くなり、どれほど身勝手になり、どれほど恐怖するかを身を持って知った。だから私はそれ以来登山をしていないし、その危険や恐怖を知った上で登山を続ける人を心底尊敬する。片山氏のパーティは、山の危険を熟知したプロの集団だった。リスクを覚悟の上で訓練のために登山して、その結果二名が亡くなった。悲しい出来事であるにせよ、誰も悪くない。仮にハイキング気分で出かけていたのならマスコミの右京氏を責める姿勢にも納得できなくはないが、彼らは万全の装備を携え、それでもこの結果になってしまった。それをせめていい人はどこにもいない。